指定の種類 | 県指定史跡 |
指定年月日 | 2010(平成22)年3月24日 |
所在地 | 志免町大字志免715番12 他 |
交通アクセス | 西鉄バス東公園台2丁目バス停下車徒歩2分 |
駐車場 | シーメイト駐車場をご利用ください |
北部九州には数多くの炭田があり、日本が近代国家に生まれ変わるためのエネルギー源となる石炭を採掘しました。なかでも、ここ糟屋炭田は高カロリーで無煙の石炭があったので、海軍は1889(明治22)年に新原採炭所(須惠村)を開き、軍艦や工業用の燃料となる石炭を掘りだしました。そのため「海軍炭鉱」と呼ばれていました。志免町で石炭の採掘が始まるのは海軍採炭所第五坑が最初で、1906(明治39)年に海軍燃料廠採炭部と名前を変え、1937(昭和12)年には61万トンという全国有数の出炭量をほこります。
第二次世界大戦後は軍事目的から一転して、日本国有鉄道志免鉱業所として、国民の大切な交通機関であった蒸気機関車の燃料などを生産します。従業員が6千人、年間50万トンもの出炭量があったこの炭鉱も、石油燃料などに変わったエネルギー革命のために縮小にむかい、ついに1964(昭和39)年に閉山となりました。
今、志免鉱業所跡には、竪坑や第八坑などの施設が残っています。第一坑を開坑して以来、第七坑までは浅い層の石炭群が採掘されてきましたが、出炭量の減少と、いわゆる満州事変後の国際的な緊張の高まりにより、より深い層の石炭群を開発する機運が高まり、第八坑と竪坑は開かれたのでした。第八坑の設備は、1940(昭和15)年3月に完成し、1943年には、地下415mもの深さで竪坑との連絡坑道が結ばれ、1949年からは竪坑の機能が発揮されるようになりました。
現在まで残っているこれらの施設は、75年間におよぶ志免鉱業所の歴史の中で続けられた、採掘から搬出までの一連の流れを伝える遺構として貴重なものです。