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糟屋の屯倉

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月26日更新 <外部リンク>

 6世紀のことです。朝鮮半島ではヤマト政権と親密な関係にあった伽耶が、百済・新羅の支配下に入っていきます。527年(継体21)、ヤマト王権軍の近江毛野は新羅に奪われた朝鮮半島南部の伽耶諸国を回復するため、6万人の兵を率いて出兵しようとしました。これを知った新羅は、九州地方北部の有力者であった筑紫君磐井へわいろを贈り、ヤマト王権軍の妨害を要請しました。これがいわゆる「磐井の乱」となるのです。磐井軍は挙兵して、近江毛野軍と交戦しました。しかし、翌年11月、物部麁鹿火軍と筑紫三井郡(現福岡県小郡市付近)で戦い、磐井軍は敗北しました。

 このときに磐井は亡くなったといわれていますが、その子である筑紫君葛子は父親が反乱したことによる連座から逃れるため、「糟屋の屯倉」をヤマト王権へ献上しました。これで死罪を免ぜられたのです。

 「屯倉」は6世紀以降に九州からはじまり、各地の国造(ヤマト王権の地方官)の領土内に、ヤマト王権の直轄地として、全国に展開されました。屯倉には、稲の収穫以外に、港湾、採鉄、軍事などの基地も含まれています。「糟屋屯倉」が最初で、これを足がかりに穂波など8つの要所に屯倉が設置されました。また、これらの統括のために那津官家が配置されます。福岡市博多区の比恵遺跡で多数の倉庫群が発見され、関連遺跡と想定されています。

 筑紫君葛子がヤマト王権へ献上した、死罪から逃れられるほどまでに価値のあったといえる「糟屋の屯倉」とは、恐らく、稲の収穫を中心としていた土地ではなかったかと思われます。では、この献上された「糟屋の屯倉」とは実際には何処にあったのでしょう。

 糟屋屯倉の関連遺跡としては、古墳時代後期の大形建物群などが発掘された、古賀市の田淵遺跡がその可能性があるといわれています。また、粕屋町日守や阿江などは当時から豊かな穀倉地帯と考えられ、交通の要衝でもあるため可能性があるといわれています。また、粕屋町原町区に所在する「鶴見塚古墳」が「葛子の墓」だとの言い伝えもあります。しかし、いずれも確証はありません。

 ただ、糟屋という地域は大陸と近く、進んだ技術をいち早く日本にとり入れられた場所であったということは言えそうです。屯倉の場所はベールに包まれていますが、志免町もその一部ではなかったのかと想像がかきたてられます。

 鹿部田渕遺跡(古賀市) ※写真提供 古賀市教育委員会(鹿部田渕遺跡【古賀市】) ※写真提供 古賀市教育委員会

 鶴見塚古墳(粕屋町)(鶴見塚古墳【粕屋町】)