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地名の話 小字の「塚(つか)・佛(ほとけ)・柩(ひつぎ)」の意味

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月26日更新 <外部リンク>

今回は小字の「塚(つか)・佛(ほとけ)・柩(ひつぎ)」です。

これは、その地域が墓となっていたことに関係します。

 町内には大字別府の「石佛」、東公園台2丁目の「佛ノ浦」、東公園台4丁目の「大塚」、田富2丁目の「大塚山」、田富2丁目・吉原の「石柩」が残っています。

 「石佛」は、月隈丘陵の先端部分ですが、近くには亀山古墳(弥生時代終末)が遺跡として残っていますし、付近には現代の墓地もあり、墓としての利用が考えられます。「佛ノ浦」は、これとは反対側の丘陵(旅石丘陵)にありますが、こちらも墓地として利用されていたのでしょう。

 「大塚、大塚山」も同じ丘陵上(旅石丘陵)に位置し、古墳時代前期の七夕池古墳(国指定史跡)があります。また、付近には古墳群があったと想定されているところで、大きな塚があったようです。

 「石柩」の「柩」は棺のことで、「石の棺の墓」の意味になります。この周辺の堺田遺跡からは弥生時代終末の箱はこしきせっかんぼ式石棺墓が出土し、古墳時代前期までの墓地であった事がわかっています。また、「石びつの由来」という物語も、この地区に残っています(福岡県の民話)。

 さらに、この近くの「野間尻」からは甕棺墓が出土し、弥生時代中期に墓地として利用されていたのです。宇美川の中流域で暮らしていた人々は、古来から川の両側にある丘陵を墓地として選定していたのだとわかります。

 志免町歴史資料室にある堺田の石棺墓(志免町歴史資料室にある堺田の石棺墓)