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トップページ志免町の史跡と文化財なつかしか(しめのむかし)

なつかしか(しめのむかし)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月26日更新 <外部リンク>

志免町で収集した昭和の写真です。
これらの写真からは時代の移り変わりがわかり、色々な思い出が映し出されています。

昭和前期

耕地整理のようす(耕地整理のようす【昭和10年代ころ】)

 耕地整理のために土をトロッコで運んでいるところです。場所は現在の日枝~仮屋で南里水路(須川)のそばのようです。後ろに見える海軍燃料廠のボタ山の形から見て、遠い昔を感じさせられます。

選炭工場(海軍燃料廠時代の選炭工場内)

 海軍で使用される石炭を選炭しています。地中からあげられた石炭(原炭)に含まれる不純物(岩石分)を除き、使用の目的によって大小に分けられていました。明治期はすべて人の手に頼っていましたが、大正以後は選炭機がこれに代わるようになりました。戦後は国鉄の機関車用として5cmに砕いていました。

旧中央小学校(昭和16年ごろの志免尋常高等小学校)

 明治6年4月、県庁に届けられた志免町の小学名は てい幹小学(現在の八尋歯科医院あたり)と亀山小学(別府一公民館あたり)の2校でした。その後、てい幹小学は志免尋常小学校となり、明治45年に高等科を併置、志免尋常高等小学校と改称されました。この時には、現在の志免中央小学校の位置に移転していました。

幼稚園(海軍燃料廠採炭部の幼稚園)

 両親が炭鉱で働くため、幼児の教育の必要があり、各坑に乳児哺育所と海軍採炭所幼稚園が設けられました。保育は、専任の保母(現在の保育士)が行い、託児に対する最善の努力をしていました。

昭和中期

サーカス風景(サーカス公演【昭和26年ころ】)

 志免鉱業所の繁栄のなか、町の娯楽といえば映画館や相撲巡業でした。そのなかでも大正町にはサーカスが訪れています。公演に訪れた象は大正町商店街などを練り歩き、多くの見物客で賑わいました。

ドンタク祭(志免町制施行15周年祝賀式ドンタク祭【昭和28年11月】)

 戦後、国鉄に移管された志免鉱業所のたくましい生産再開を背景に、志免町の再興を願う15周年記念式典が遂行されました。戦後のまだまだ続く苦難の生活に耐え、町民を挙げて町づくりの意気を高らかにうたい上げ、町全体が盛り上がったドンタク祭でした。

共済会館(共済会館【昭和29 年ころ】)

 右の建物は志免鉱業所従業員の諸行事に使用された会館(国鉄時代には志鉱会館と呼ばれた)です。収容能力2000 人。記念祭や慰安など大集会のほか、映画も上映されました。娯楽の少ない戦後には、町民もよく見物に集まり娯楽場としても利用されました。

昭和後期

祭りしめ(祭りしめ【昭和57年から62年】)

 ふるさと振興への願いを込め、現在の新庁舎の完成に併せて第1回「祭りしめ」が昭和57年5月に行われました。各町内会からの趣向を凝らした「子どもみこし」(写真)や自衛隊音楽隊などが町を歩き、メイン会場の町民センター前広場は毎回1万人以上の人で賑わいました。

旧志免町役場(昭和50年代の志免町役場)

 町を南北に走る県道68号線沿い、現在のふれあい公園のところに旧役場は建っていました。これは1階部分(写真右側)を増築した後の写真です。昭和11年に建設されたレトロなデザインで、2階の窓からはストーブの排気口が見えます。老朽化と事務量の増加に伴い、昭和57年に現在の役場が建設され、役目を終えました。

さようなら勝田線(さようなら勝田線【昭和60年3月31日】)

 吉塚駅と宇美町にあった筑前勝田駅を結んでいた勝田線。もともとは石炭のほか、宇美八幡宮への参拝者を運ぶ「参宮線」と呼ばれていました。廃線前、町内には御手洗、上亀山、志免駅があり、全盛期は数多くの人や物資を運びましたが、1985年に全線が廃止されました。現在は緑道として公園整備され、志免駅(写真)の跡地には鉄道公園が作られています。