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石投げ相撲

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月26日更新 <外部リンク>

 この起源についてははっきりしないが、江戸時代も末のころ、志免村(旧)に牛馬の悪疾が流行し、次から次と倒れていった。特別に手当に詳しい者がいるわけではないし、薬もないまま恐れおののいていた村人は、施すすべもなく、神の御加護を祈るほかはなかった。
 村民はこぞって、牛馬の神として知られていた大行司様の前にぬかずき、悪疫退散のために万年願をかけてお祈りした。その効たちまちあらわれて、さしも猛威をふるった悪疫も治まり、悪夢からさめたような村人たちは、大行司様への感謝の念にたえず、祈願の日、九月一日に若者たちの相撲三三番を、奉納することにしたのが始まりである。
 石投げ相撲
  明治初年には類は類をよんで、相撲愛好の若者が、広く郡内外から参加するようになり、一かどの草相撲力士も加わるようになって、年ごとに盛大になっていった。その経費は初めのころ、牛馬の持主から切って集めていたが、大正八年ごろからは志免農区内の青年会が勧進元をつとめ、経費一切農区負担とするようになった。
 このころから奉納相撲の意義がだんだんうすれ、勝負に一喜一憂してこだわり過ぎるようになり、あげくの果ては、熱狂のあまり石を投げ合うほどの気の入れようとなった。誰言うとなく「石投げ相撲」の異名が生まれて郡内外に広まり、一時はその名と共に有名になったが、やがて須恵から専任行司(野田)を迎え、その威儀を正した行司ぶりに感化されて、礼を重んずる相僕本来の姿を取りもどして、秩序あるものになっていった。
 戦時下では郡外からの力士はだんだん滅っていったが、体育奨励の意味もあって、近年郡内町村別対抗の復活、町内地区青年対抗、子ども相僕、赤ちゃん土俵入りなど、初秋の一日を楽しむ行事として定着してきた。