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方ヶ島【ほうがしま】

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月26日更新 <外部リンク>

 三韓出兵の際、応仁天皇をご懐妊なされて、御産所を香椎宮で蚊田の邑(宇美八幡宮)に決められて、その道のりで、手を洗われたことから御手洗とついた。そして、御産所の方角を訪ねられたところが島のように小高いところだったので、方ヶ島と名付けた。「方ヶ島」の名の由来は、現在残っている石碑が、その面影を偲ばせる。この碑は、正面に「方ヶ島八幡宮」とあり、裏面左側に「古来神功皇后、応仁天皇の安産地の方向を比地に於てお定めになった事腐と伝えらる」、裏面右側に「大正十三年四月五日建」、「昭和三十二年五月十日改建」と、刻字されている。

以前この地には「方ヶ島八幡宮」というお宮があり、古老の話では昭和の初めまでお堂があったということである。

 方ヶ島

 古事記や日本書紀の物語では、神功皇后は、三韓出兵の際、応仁天皇を御懐妊中でした。無事筑前の国に帰着し、姪浜(福岡市姪浜)の袖浜に上陸なされました。それから香椎宮(福岡市香椎)に入って、御産所をどこがよいか占い、蚊田の邑と定められました。いよいよ香椎宮を出て、芦津の浦(福岡市箱崎)を過ぎると陣痛が起き「はらいた」と言われたので、その地を原田と名付けたといいます。神功皇后は、行幸を急ぎましたが、日はすでに傾き、道端の石に腰掛けて「日を守りたまいて(太陽をじっと見て)今何時か」と尋ねられました。

 方ヶ島

 そこで、この石を日守石と名付けられました(粕屋町阿恵日守八幡宮)。行脚を続け、皇后は道のそばの川で手を洗われたので、その地を御手洗というようになりました。そして地形が丘のようになっていた地に着いたとき御産所の方角を尋ねられましたので「方ヶ島」(志免町大字志免)としたといわれている。

無事、神功皇后は、蚊田の邑に到着して応仁天皇を出産されました(宇美町宇美八幡宮)。との説話が残っている。 

おしまい。