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筑前竹槍一揆

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月26日更新 <外部リンク>

 明治6(1873)年の田植えの時期は、九州は雨が降らず、たんぼの土はひび割れ、田植えの水がない旱魃の年でした。そこで、多くの農民がお宮で雨乞に努めました。
 旧福岡県(筑前国一円)の東端、嘉麻郡高倉村(現在の飯塚市高倉)の日吉神社で、農民が七日七夜の雨乞祈願をしていましたが、6月16日夜、小倉県(かつての豊前国)との境にある金国山で昼は紅白の旗を振り、夜は火を焚いて合図をしている者がいるのを知ります。これは「目取り」と言って、米相場の高い低いを山伝いに連絡して、一儲けしようという連中だったのです。農民らは目取りの頭のところへ押し掛けました(猪膝の打ちこわし)。このとき百姓の武器「竹槍」を持って気勢を上げ、筑前全域を舞台に2週間近くに及んだ筑前竹槍一揆が起こったのです。
 農民らは、相場師の住む富商※宅などを破壊し、猪膝(田川市南部)から大隈(嘉麻市)へなだれこみ、穂波郡へ広がります。さらに、鞍手・宗像・糟屋郡へ一揆の主力が変わり、当時福岡城内にあった県庁襲撃へと発展する事態となったのです(6月21日)。
 この東からの一揆勢のほかに、南と西からの一揆勢が行動し、それぞれ福岡県庁へと向かい、打ちこわしを行いました。南からの一揆勢は秋月を中心とした上座・下座・夜須・御笠郡、西からの一揆勢は早良・志摩・怡土郡で、総勢十万人が加わりました。
 筑前竹槍一揆での糟屋勢は、6月19日に亀山八幡宮に本部を置いたといわれ、県庁襲撃へ向かったとされています。その途中、打ち壊しの目標である志免小学校(現志免中央小学校、旧志免第一小学校、志免1丁目)と志免村役場(現志免町役場、当時は志免中央3丁目の旧役場跡=ふれあい公園)で、あるエピソードが残っています。
 「ここの教員や吏員は一揆に恐れることなく、平常の態度で授業を行い、執務をした。これを見て、さすがの一揆勢も手を出さず通り過ぎていった」というもので、このようなことは志免村だけということです。(志免町誌より)
 一揆勢には全体の司令部などはなかったのですが、盗犯は少数の者に限られ、全体的には統制が取れていたと思われます。
 筑前竹槍一揆の参加人員は十万人といわれていますが、6月23日に平静に向かいました。県は、政府に防備・鎮圧を要請していたので、25日に一揆勢の鎮圧がありました。一揆勢はお互いに連携することもありませんでした。それで、東と南、西から集まった各方面の一揆勢は、散り散りになって帰郷したのです。ここに一揆は収まり、福岡県で起きた嵐のような出来事となりました。
 筑前竹槍一揆という出来事が、なぜ続いたのでしょうか。そこには、民衆の間に政府への強い不平と不満があったからと言われています。
 筑前竹槍一揆の原因は、欧米にならって近代化を進めた、新政府への強い不満にありました。廃藩置県のほかにも、地租改正・徴兵令・太陽暦の採用・神仏分離政策による道ばたの神仏撤去などが行われ、それまで民衆の慣れ親しんだ世界が、うむを言わさず変更されていったからです。一揆は、政府の進めたありとあらゆる文明開化政策を、廃止の対象として筑前全域へと広がったのです。
 そのなかに重要なことがあります。明治4(1871)年に政府が行った穢多非人等の身分の廃止をした「解放令」についてです。これを受け入れられない人々が、解放令の廃止を要求し、部落焼打ちの暴動もおきたのです。つまり、「解放令」は制度上の廃止にとどまり、差別が残る社会の仕組みや、人の心の中にある差別意識を変えるには至らなかったのです。一揆勢が、理不尽な部落の焼打ちを行ったその数は、約1500件に上ったといわれています。
 明治6年の「筑前竹槍一揆」での被災状況は、き損や焼失した家屋は4590軒、死傷者70人で、公共施設の被害は甚大でした。また、一揆参加者の非処罰者数は、約6万4千人で、斬罪(うち首)3人、絞罪(首をしめる)1人、懲役以上の受刑者は、92人でした。その他が杖(杖で打つ)・笞(鞭で打つ)や罰金などの刑を受けたものです。志免町誌によると、志免随行のものは347人いて、これは志免6ヶ村(明治22年の合併前の町域)の成人男性の約7割に達していたことは驚きです。

筑前竹槍一揆

※富商とは富裕な商人という意味です。
参考文献:「筑前竹槍一揆の研究」石瀧豊美