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中野徳次郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月26日更新 <外部リンク>

 大字別府の正覚寺には「中野徳次郎」と銘の入った「煉瓦塀石垣」と書かれた石碑があります。これは大正5年4月に、中野徳次郎がお寺の赤煉瓦塀と石段を寄進したときに建てたものです。徳次郎のことは、大正2年の福岡日日新聞(現西日本新聞)に、九州全域の10万トン以上の炭鉱を持つ鉱業権者として掲載されていますが、石碑には「亀山炭鉱主」とあります。

 徳次郎は安政四(1857)年、福岡県嘉穂郡二瀬町(現在の飯塚市)に生まれ、15歳にして香月(現在の北九州市八幡西区)などの炭坑で働きました。その後、高雄(現在の飯塚市)、大城(現在の飯塚市勢田)、赤池(現在の田川郡福智町)などの諸坑の工事を監督し、炭坑事業について経験や知識を養っています。

 その後、相田(現在の飯塚市)、亀山(志免町大字別府)、熊田(現在の嘉麻市)、松島(現在の長崎県西海市)という諸炭坑の経営に着手して、岐阜県天生金山、愛媛県伊予銅山等を経営するまでに至りました。亀山は、明治29年から創業していた亀山鉱業所を明治39年に買収し、大正8年まで掘りつづけました(鉱業所は昭和35年に閉山)。徳次郎は中国革命家の援助をした実業家として有名で、東アジアの大局を憂い、中国革命の志士(孫文)らと時事を談じ、自ら私財を投じてその活動を援助しました。玄洋社志士とも交友しました。

 明治39年に衆議院議員となりましたが、その後は専ら産業に身を委ね、石炭以外にも、森林、電気、鉄道、銀行などに関する諸会社の社長となりました。大正7(1918)年、62歳で亡くなっています。

 正覚寺にある石碑(正覚寺にある石碑)